お久しぶりです。
「そろそろ書こう」と思ってから、いい感じに時間が経ちました。
どんなテンションで書いていたのかも、少し曖昧なのですが
考えすぎると進まないので、このまま書いてみます。
今日は、ミニマリストなのに推しでモノが増え始めた話です。

ミニマリストに憧れたら、好きなことまで減っていた
今から7年前、ミニマリストに憧れて、モノを減らし続けていた時期がありました。
クローゼットはすっきり整い、部屋も軽やかに。
視界がクリアになると、気持ちまで前向きになるようで、「なんだか人生うまくいっている気がする」と感じていたのを覚えています。
けれど、その感覚は長くは続きませんでした。
ふと気づくと、昔は当たり前のように楽しんでいたことを、ほとんどやらなくなっていたのです。
趣味らしい趣味もなくなり、「空いた時間、何をしよう」と考えても答えが出てこない。
モノは確かに減ったのに、
どこか、自分自身まで削れてしまったような感覚が残りました。
人は「カテゴリー」に入ると、自分を寄せに
あとから振り返って気づいたのは、「ミニマリスト」という枠に、自分を当てはめようとしていたことです。
人は一度、「〇〇な人」というカテゴリーに入ると、無意識のうちにそこへ自分を寄せていきます。
たとえば、
- これはミニマリストっぽい
- これは、らしくない
- 好きだけど、今の自分には不要かもしれない
そんなふうに、判断の基準が少しずつ変わっていく。
本来は「好きかどうか」で選んでいたはずなのに、
いつの間にか「ミニマリストとして正しいかどうか」で選ぶようになっていました。
「減らす」は得意。でも「残す理由」は考えていなかった
モノを減らす作業には、わかりやすい達成感があります。
数が減ることで空間が整い、思考もクリアになる。
変化が目に見える分、気持ちよさも大きい。
だからこそ、「減らすこと」自体が目的になりやすい側面もあります。
一方で、
- なぜそれが好きだったのか
- それをしているとき、自分はどんな気持ちだったのか
こうした感情の部分には、あまり目を向けていませんでした。
その結果、
好きだったことまで、一緒に手放してしまっていた
「減らす」という行為が、気づかないうちに感情よりも先に立ってしまっていたのです。
心が痩せていくような感覚
私自身、モノを減らしすぎてしまったひとりです。
そのときに感じていたのは、こんな変化でした。
- 心が少し痩せたような感覚
- 楽しいと感じることが減っていく
- 何かをしたいという意欲が湧かない
それでも、ミニマリズムという考え方そのものには魅力を感じていました。
だからこそ、「やめる」ではなく、「どう向き合うか」を考える必要がありました。
「ミニマリストなのに〇〇」でいい
そんなときに、自分の中でしっくりきた考え方があります。
それは、
「ミニマリストなのに〇〇」でいい、ということ。
- ミニマリストだけど、趣味が多い
- ミニマリストだけど、非効率な時間が好き
この「〇〇」の部分こそが、自分らしさなのではないかと思うようになりました。
一見すると矛盾しているように見えても、
それは本来の自分に近づいているサインなのかもしれません。
モノを減らした先で、もし窮屈さや生きづらさを感じるなら、
それはミニマリズムに縛られている状態とも言えます。
私の暮らしにある「〇〇」
今の私の暮らしは、決して“完璧なミニマリスト”ではありません。
ミニマリストだけど、キッチン道具は多め。
ミニマリストだけど、推しのグッズが少しずつ増えている。
それでも、これでいいと思っています。
むしろ、ミニマリストとして矛盾を抱えている部分にこそ、生活の温度や楽しさが宿るように感じています。
「少ないこと」が正解なのではなく、
「自分にとって心地いいこと」が自分にとっての正解です。
ミニマリズムは、何かを削るためのものではなく、
本当に大切にしたいものを見つけるための手段。
そう考えるようになってから、ようやく窮屈な生活から抜け出せたような気がしました。
というのも、最近「パンどろぼう」にすっかりハマってしまっています。
とはいえ、むやみにグッズを増やしているわけではなくて。
子どもの持ち物や日用品を選ぶときに、たまたまそのキャラクターのモノがあれば、それを選んでいるだけです。

本当に“必要なモノ”を手にしているはずなのに、
ふと見渡すと、じわじわとパンどろぼうに囲まれている我が家。
……不思議ですね。
減らしているはずの暮らしの中で、
なぜかパンどろぼうだけはちゃっかり居場所を確保しているようです。

ミニマリストなのに、推しがいる。
いいえ、必要なモノを選んだら、たまたま推しだった。
ただ、それだけの話です。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
また、お会いしましょう。

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